浅草橋駅

ぶらぶらスポットを訪ねて

浅草橋ぶらぶらマップの紹介スポット「ぶらぶらスポット」を詳細に、浅草橋に古くから住む人などの取材を交えて、その歴史や秘話などを探索し、時には調査・研究する企画コラムです。浅草橋ぶらぶらマップと合わせてお楽しみください。

(L)浅草橋駅

浅草橋一丁目 MAP D6 E6

JR総武線各駅停車と、都営地下鉄浅草線が乗り入れ、接続駅となっている。東京都にとって、浅草線は初の地下鉄路線。1960年12月、都営1号線として押上~浅草橋間 (3.2km) が開業した。

「え? 雷門ないの!?」浅草駅と間違えられる

浅草橋駅のなるほど “深いい” 歴史秘話

《JR浅草橋の東口前を流れる江戸通りと周辺の町並み》

 JR浅草橋駅のホームへ降りると、こんな貼り紙が目に飛び込んでくる。

「浅草方面へお出かけのお客さまへ 浅草寺 雷門 花やしき(中略)までおでかけの場合は、東口改札を出て都営浅草線をご利用ください。最寄り駅は、浅草駅です」

《JR浅草橋駅構内にある貼り紙。浅草までは徒歩で30~40分との注意書きが》

 浅草橋駅では、この貼り紙を観光客が困惑気味に見つめているのを、おどろくほど頻繁に目にする。みんな大人なので口には出さないものの、おそらく「え? 雷門ないの?」「浅草じゃなくて、浅草橋?」「紛らわしい名前だな」とでも思っているのであろう。

 賢明な方はお気づきだろうが、浅草橋はそこまで名の知れた土地ではない。しかし、有名でないからと言って退屈かといえば、そんなことはない。今は忘れ去られてしまったものの浅草橋には特有の背景があり、一見すると何の変哲もない風景のなかに意外な見どころや歴史を見つけ出すことのできる街でもある。ここではいくつか要点をしぼって、浅草橋の背景を解説していこう。

浅草寺の参道だった

江戸通り沿いは人形の街

 浅草橋を歩いていて、まず最初に目につくのが、「吉徳」や「久月」といった老舗人形メーカーの大型ショールームだろう。それもそのはず。浅草橋は江戸時代から続く、人形の街なのだ。浅草橋一丁目の古い地名「浅草茅町」といえば、川柳に「茅町で鎬(しのぎ)を削る節句前かな」と残るほど、人形問屋や職人の集まる場所として有名だった。

 なぜ、この地で人形が盛んになったかといえば、浅草橋駅東口の目の前を通る「江戸通り」が、かつては〝浅草寺の参道〟としても機能していたためだ。今のように地下鉄もない頃には、人々は浅草寺に参拝するために、この江戸通りを北上していた。そのため、この通り沿いにはさまざまな土産物屋が並び、節句の前には地方客向けの人形市で賑わったという。浅草橋の歴史に詳しい「柳ばし 小松屋」の店主・秋元治さんはこう語る。

「〝形代流し〟と言って、人形が厄を身代わりに引き受けてくれるという信仰があったのね。地方から出てきた人が初孫とかにお土産に買って帰るものの定番が、昔の〝人形〟だったんだよ。なかには人形を買いに行くという名目で、浅草見物に来る人もいたそうです」

 実は、今でも浅草橋周辺から蔵前にかけての一帯には、玩具問屋が多く残っている。戦前に設立された業界組合は「東京玩具雛人形問屋組合」といい、雛人形と玩具は同じ業界としてひとまとめになっていた。かつての玩具・人形業界では老舗人形メーカーが大きな影響力を持っていたため、それらが軒を連ねる浅草橋に玩具問屋も集まってきたというわけだ。

買い物が楽しい問屋街の

ルーツは「東京大空襲」

《江戸通り沿いにある団扇、扇子、カレンダーのお店「松根屋」》

浅草橋は、「問屋街」とも表現される。このあたりに玩具問屋が多いことは先に述べたが、ほかにも服飾雑貨、革製品、タオル、花火、造花、バルーンなど、バリエーション豊かな問屋が集まっている。今では、そういった問屋の多くは小売も兼ねるようになっており、問屋ならではの品揃えを期待する買い物客の姿もよく見られる。

 なぜ、浅草橋に問屋が多いのかといえば、浅草橋駅前がかつて長らく放置された焼け野原だったからである。

 戦時中に首都を襲った「東京大空襲」において、この地は大きな被害を受けた地域だった。

特に「ミーティングハウス2号作戦(下町大空襲)」と呼ばれる、1945年3月10日の空襲において、アメリカ軍は当時この周辺にあった町工場を確実に焼き払うために、焼夷弾を用いた市街地爆撃を実行した。当時から浅草橋に店を構えていた、洋店「一新亭」の三代目・秋山武雄さんはこう語る。

《浅草橋3丁目で100年以上続く洋食店「一新亭」の主人・秋山武雄さん。「東京大空襲」をこの地で体験した生き証人だ》

「わたしは当時、小学校1年生だったの。その当時からここ(浅草橋3丁目)にいました。夜に空襲警報が鳴って、うちのおじいさんと3階へ行って(窓から)見たら、もう向こうのほう(蔵前方面)は真っ赤になっているんですよね」

 さいわい、「一新亭」も秋山さん一家も戦火を免れたものの、お店の道を挟んで向かい側の建物は全滅。もちろん、被害はそれだけではなく、浅草橋駅前一帯は焼け野原となってしまったという。

 空襲により壊滅的被害を受けた浅草橋周辺だったが、開発、街の復興ははかどらなかった。写真家でもある秋山さんは、当時下町のあちこちをカメラ片手に走り回っていたが、当時の浅草橋界隈についてこう振り返る。

「浅草橋駅ほど国鉄で(復興が)遅れた土地はないですよ」

秋山さんによれば、当時賑わっていたのは駅からやや離れた鳥越「おかず横丁」のような商店街で、駅周辺にはコンクリート造のために焼け残った浅草橋駅があるくらいで、あとはバラックで築いた小規模な店舗のみだった。浅草橋駅前で寿司屋を営む大山豊さんの店『寿し政』も、最初はバラックからスタートしたお店だ。

《寿し政の店主・大山豊さん(現在は閉店。向いでご子息が営業中)。昭和13年に横浜で生まれ、第二次世界大戦後に一家で浅草橋に疎開した。》

「戦後で整備されていなかったから、店は早いもん勝ちじゃないけど縄引いてバラック建てたり。そんな時代だったね」(引用:『浅草橋を歩く』/[前編]街の人たちの「おいしい」のために。『江戸前 寿し政』親方 大山豊さんインタビュー/2019.12.26

《写真家でもある秋山さんが撮影した、昭和41年頃の浅草橋駅東口駅前。当時は南千住―新橋を結ぶ路面電車(都電22番線)が通っていた。江戸通り沿いには雑貨や人形の問屋が並ぶ(提供:秋山武雄さん)》

 一方、その余った土地を重宝したのが、雑貨類の問屋だった。戦後の混乱期にあっても材料調達が比較的容易だった雑貨類は供給も安定しており、商品価格も高いものではないのでその問屋も少ない元手から始められた。そんな小規模問屋にとって、浅草橋駅前は理想的な土地だったのだ。土地が安いのはもちろん、周辺には製造所となる町工場が多くて鉄道の便もいい。問屋にとって、浅草橋はメリットだらけだった。

問屋は応接室のようなスペースを持たないことも多いので、商談は近くの喫茶店などで行った。最近はそうした商談を目にする機会はないが、今も浅草橋駅前にはほかの街に比べて古い純喫茶が多く残っている。

《JR浅草橋駅西口近くにある純喫茶「SMELL」。昭和30年代に創業》

前出の「寿し政」の大山さんはこう語っている。

「どの会社も小さかったから、商談は必ず喫茶店。浅草橋は日本で一番喫茶店が多い街って言われてたよ」(引用:『浅草橋を歩く』/[前編]「変わらない」人間交差点。浅草橋の純喫茶『SMELL』西出栄子さんインタビュー/2020.03.27掲載

 しかし、近年は問屋も後継者不足で減少傾向で、それに代わって増えているのがビジネスホテルや観光客向けのホステルだ。浅草や秋葉原、上野、両国といった東京観光の定番スポットへもアクセスしやすい立地のよさに加え、地価の安さから東京オリンピック前の需要を見越して投資が盛んに行なわれている。有名ホテルチェーンも多く進出しているが、裏通りには問屋の跡地を再利用した小規模なホテルも建設され、価格が安いわりにオシャレなものも多い。東京観光の拠点として、浅草橋を活用するのもオススメだ。

浅草駅からちょっと遠いのに

浅草橋と名づけられた理由

《「浅草橋は浅草じゃない」と言われることもあるが、これは正確な表現ではない。》

 話を冒頭の貼り紙に戻そう。浅草寺で有名な浅草駅から遠く離れたこの土地が、なぜ浅草橋と呼ばれるようになったのか。その理由はこの地に「浅草橋」という橋がかかっているからで、その橋の由来となった浅草見附がこの地にあったからだ。

《両国へとわたるための「浅草橋」》

 しかし、ここでさらに疑問がわく。そもそも、なぜ、浅草寺からやや遠いこの地に〝浅草〟の名を冠する橋や見附があったのか。浅草寺により近い蔵前駅には〝浅草〟という字が入っていないので、違和感を抱く人も少なくないだろう。

《「浅草橋」の手前に建てられている「浅草見附跡」の碑。》

 しかし、答えは非常に単純で、蔵前も浅草橋もかつては〝浅草〟だったからだ。浅草と呼ばれるエリアは本来隅田川の西岸一帯を指す地名で、明治時代頃などは「東京市浅草区」としてどの町にも〝浅草〟の2文字が入っていた。蔵前に至ってはその地名のもとになった米倉が江戸時代は「浅草御蔵」と呼ばれていたし、昭和22年に台東区が成立した当初は蔵前も「浅草蔵前」を名乗っていた。

 この事実を理解したうえで、冒頭の貼り紙を読み返す。すると、この貼り紙が非常に正確であることに気づく。なぜなら、この貼り紙には「ここは浅草駅ではない」とする表現はあっても「ここは浅草ではない」という表現はどこにもないのである。よく読むと「浅草寺 雷門 花やしきまでおでかけの場合は」と書いてあるだけで、この貼り紙もここが浅草であることは言外に認めているのである。

 なので、もしも、浅草観光に向かう際に浅草橋駅で下車したとしても、焦ることはない。あなたは、すでに浅草の地に降り立っているのだ。雷門や浅草寺、花やしきも素晴らしい観光スポットだが、ぜひ、ついでに浅草橋周辺も歩いてみてほしい。普通の観光とはひと味違った、ディープな浅草の風景と出会うことができるはずだ。

《昭和41年頃の江戸通り。左手前に浅草橋駅がある。右手に見える「長谷川商店」は今も健在で、夏は花火屋として賑わう。(提供:秋山武雄さん)》

2022年4月

取材・文/山口大樹(浅草橋を歩く。)

写真/伊勢新九朗、平柳智子、秋山武雄提供

企画/浅草みなみ観光連盟